昨年体験した祖母の初盆とそこでの母の座布団の座り方から、固有名詞の理解と「演劇的真実」について考える連載。全5回予定。
この連載は岸井大輔の言う「演劇的真実」をキーワードに進めてきた。あらためて説明すれば、論理でも正義でもなく、人が人に話すことによって説得される特殊な了解の仕方があるということだ。理屈にも倫理にも還元することのできないこの領域は、プラトンの詩人追放令以降、思ってもないことを言って状況を撹乱し、みんなで集まって決める民主主義を根本的に腐敗させてしまうものとして疎外されてきた。説得することが、適切なエビデンスが用意されているかどうかや、政治的な正しさやコンプライアンスに則っているかどうかに直結する現代においても、演劇的真実のポジションは無視され続けている。
古代ギリシアに遡ってこう言ってみよう。まず演劇の根本はみんなで集まって決めることである。集まって話しているうちに、集まって話すことそれ自体がもつ謎めいたパワーに気付くようになり、悪用が始める。腐敗した直接民主主義は終わり、寡頭制の時期を経て古代ローマの独裁、論理と倫理だけの時代へと移行する。したがって演劇を試みることはみんなで集まって決めることを試みることであり、集まって話すことそれ自体が持つパワーとしての演劇を思考し扱うことである。
岸井がいう演劇的真実とは果たして一体なんだろうか。それはおそらく岸井の活動の不可解さにもつながっている。劇作家と名乗りながら、制作された戯曲はどれもこれも一般的な近代劇とは呼び難い。劇団を組織して主宰業や上演を行うわけでもなく、企画するのはトークイベントやアートプロジェクトだ。一見してわかりずらいにも関わらず、演劇的真実という概念によって一貫されているように見える岸井の活動を下支えするフィールドはどこにあるのか。あるいは岸井の活動を分かち持つような言説はどこにあるのか。岸井は常に東浩紀と接している。今回の論考の目的は、岸井と東の議論の並行性を大掴みにでも整理し、演劇という語を通して考えられるべき使命を、できるだけシンプルな形で取り出すことだ。要するに、最近考えていてわかったことを書きます。
東の『存在論的、郵便的』や『訂正可能性の哲学』ほかで繰り返される、固有名詞をめぐる議論は岸井の「演劇的真実」と強く関係している。固有名詞は確定記述の束に還元できない。それはなぜかといえば、『存在論的、郵便的』においては「反実仮想」が、『訂正可能性の哲学』においては「訂正」が成立するからだ、という議論である。「もし夏目漱石が女性だったら」という文や、「実は夏目漱石は女性だった」という文は、すでに存在する確定記述の束に対して矛盾するにも関わらず、夏目漱石という固有名詞自体は温存され続ける。固有名詞は確定記述の束によっては説明しきれず、事後的な訂正や、事前的な仮想によって、その内実を大きく変化させながら、同一性を持つ。乱暴な要約だが、東の固有名論の大枠である。これをもっと柔らかくいえば、固有な人間が固有な人間として生きるということは、その属性や社会的状況には還元できないということだと言えるだろう。ソクラテスやプラトンやアンティゴネやハムレットやルソーは、固有名詞が流通することで反実仮想と訂正の対象として何度も現れ続け、その度にその内実を大きく変化させながら彼らは彼らとして生きる。
また『一般意志2.0』や『訂正可能性の哲学』ほかでのルソーをめぐる議論も、基本的にこれと同型の議論だ。特殊意志とその集合である全体意志がある他方で、そこから完全に離れていながら全面的に影響を与える一般意志が存在する。もう少しいえば、人々が集まる=社会契約を結ぶと一般意志が登場するが、一般意志は集まりの成員それぞれの特殊意志でもなければ、特殊意志の集合である全体意志でもない。これがルソーの主張である。先ほどの固有名論を敷衍すればそれぞれ、特殊意志は確定記述に、全体意志は確定記述の束に、一般意志は固有名に当てはまる。共同体や国家もまた、成員たちの私益に還元されない、集まり独自の固有性や公共性を保持する。そして同時に一般意志が存在するということは、特殊意志たちだけがあるという意味での民主主義でもなければ、一つの特殊意志や一般意志だけがあるという意味での独裁でもない、特殊な集まりの形式を示す。一般意志もまた固有名と同様に、事前的な仮想や事後的な訂正によって絶えず揺り動かされるからだ。岸井がいう、話されることであたかも以前からそうだったと説得されてしまう状況やその働きを東は「訂正」と呼び、それが固有名詞や集団の中でどのように作用しているかを分析してきたと言って良いだろう。
岸井が特権的に取り上げるプラトンと、東が特権的に取り上げるルソーは共に、演劇を奇妙な仕方で否定した点で呼応している。プラトンは詩人(劇作家)を追放しろと言いながら戯曲の形式で哲学を開始し、ルソーは劇場など建てるなと言いながら田舎で小説を書いた。演劇や創作は思ってもない嘘を言うことで、それは集まりを撹乱し腐敗させるので良くないという建前を取りながら、しかし実際には本当と嘘や正誤、善悪というものは分別し難いことを、両者は深く理解していた。
そして演劇的真実や訂正は、戯曲や小説など創作の形をとって現れる。『訂正可能性の哲学』の中で東はルソーの自然/人工観について、その両義的でどっちつかずにも見える主張を「人工的自然」と呼称した。要するに固有名詞や一般意志が流通するフィールドのことを言っている。初めから存在したわけではなくあくまででっち上げに過ぎないのだが、次第に存在感が出て、あたかも物質のようになってくる。ソクラテス、プラトン、ハムレットの物質感たるや。
おそらく東が『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』で扱ったSF的想像力や幽霊のモチーフは、この人工的自然のようなフィールドと関係している。素朴にいえば噂話は近代を迎えてから誕生したというが、噂話は、ある人を人工的自然の中に解放・流通させ、幽霊や悪魔を成立させるに至る。しかし幽霊や悪魔をいなくさせる方向にインターネットや情報環境が進んでいて、それに待ったをかけたいというような方向の論調だ。演劇人たちが何百年もアンティゴネやハムレットを上演するのは、アンティゴネやハムレットという人たちの謎を理解するために繰り返すわけだけど、同時に何百年もいる幽霊がいるフィールドを維持するインフラ業者的働きもある。劇場と人工的自然はこの点で密接に関係する。
では演劇的真実や訂正が起こることや、それを下支えする人工的自然をインフラレベルで整えたところで何がうれしいのかというと、途端、なんだかよくわからなくなってくる。東は『訂正可能性の哲学』のあとがきで「訂正」を、『存在論的、郵便的』で自身が真剣に突き当たった「人はなぜ哲学をするのか」という問いへの答えだと言っている。『存在論的、郵便的』の内容は固有名論で、すなわちプラトン以来続く「演劇」の問題を扱っており、それに対しての回答が「訂正」だということに、乱暴だがまあなる。プラトンが詩人を追放しなくてもよい理由と大義を、東が二〇〇〇年以上ぶりに作ってあげたと、そういうこともできる。全然、それくらいのレベルで説得的な論だと思う。
「訂正」がちゃんと「訂正」としてある個人から発されること、そしてその「訂正」が「訂正」として集団の中で聞き取られること、その動きが集団の形をソフトとしてもハードとしても変えていくこと、それを下支えするインフラとしての人工的自然を耕し続けること。それが哲学と演劇、ひいては人文学の使命であるのだ。まあ極々穏健で真面目で、めちゃくちゃ「ふつう」のことだとも思う。ここで欠けているのは「訂正」の完成のイメージだ。おそらく「訂正」の先にあるのは民主主義ではない。というか民主主義は来ない。固有名詞や確定記述がなくなれば民主主義だが、そうならなければこない。プラトンさんに恩返しするのだというモチベーションとして演劇の歴史に奉仕したい気持ちももちろんある。アンティゴネやハムレットがまだいて、去年の母親もいて、二十年前の母親もいて、そのことに何度だって驚けるということに演劇や哲学をやることの兆しがある。何度だって驚ける場所にいたい。なんだか足場が固まったぞと思って意気込んで書き始めたのだが、途方に暮れてしまっているというか、眠たくなってきている。
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