IE-イエという団体の「灰色の牛」という上演に、出演で参加します。主宰の三井朝日さんから出演やりませんかと声をかけていただいて、やりますと言って出ることになりました。愛知県芸術劇場のワークショップで名古屋に滞在してたとき、泊まったウェルビー栄というサウナとカプセルホテルの中の喫煙所で、打診のラインと初稿の台本を読んだのが最初です。今年の2月末です。三井さんとは以前に「日々の公演2」という美学校開講の短期講座で知り合いました。わたしの演技を評価してくれる数少ない人の一人です。
出演というのは本当にとんでもないことと思っています。俳優というのは本当に恐ろしい職能です。舞台に立つことは立っている本人を、すごく強く動揺させることです。
どういうことか。以前わたしの戯曲を使って稽古をしていたときに、セリフを喋っていた人がやり終わってから「セルフネグレクトしないといけない」と言っていたことがありました。自分が思ってもないことを言わなくてはいけないというのがまずある。しかしそれよりも重要なのは、この状況のなかに自分が置かれているということがどういうことなのかがわからなくなるということでもあるように思います。
自分が思ってもないことを言う、他人に見られながら言う、他人は自分に話しかけないが見ている、何かをやり始めてやり終えなければならない。それは日常的に行なっているセルフケアを、この場で自分がいたいように振る舞うことを、放棄したり、停止する必要がある。「セルフネグレクトしないといけない」とはそのようなことの謂れのように思い、わたしもいままさにそのような感覚があります。他ならぬわたしがやることであるにも関わらず、わたしがやるということに対して普段やっているようには、わたしはハンドルを握ることはできない。それはとても恐ろしいこと。
今年の7月に上演した「上演のタネをまく」の時には、戯曲があり俳優がいてというような建て付けではなく、とりあえず会った人たちでやりたいことをそれぞれ集まってやるというものでした。割合自由にやりたいことをやることがその時にはでき、実際出演もしたけれどセリフを書いたし舞台美術の配置もした。わたしがやりたいことのためには、どのような手立てでそれを実現してもとりあえずはよいというやり方は、いまのわたしにとってはかなり健康的で、のびのびと準備ができた。わたしは都合のいい時までハンドルを握り、都合のいい時にはハンドルを手放し他人に任せることができた。わたしは15分の上演を3つ上演しました。「PSYCO-PASS Lecture BATTLE Performance」「二つが揺れるためのグッド・プラクティス」「見分けがつかないくらいとても白い」の3つです。3つ全てスタイルが異なり、異なる過程で上演が準備できたこと、その過程をわたしが健やかに過ごせたことの2点で、わたしはこの上演は成功したと考えています。
他方で、集まって複数人でやることによって、それぞれの「やりたいこと」を紛らわすことが起きたとも思っています。これはネガティブなことです。やりたいことというのは、自立してあらわれない。これですという仕方で言われない。やりたいことは、人と人が関係をとっているときに、あるいはなんらかのやりとりが起きているときに発生するもの。だから自分のやりたいことはこれですと自分では(完全には)言えない。自分のやりたいことはやりとりの中で達成されたり、作品を制作し発表される中で、遡って「これがやりたかったことだ」と示されるほかない。だから一人では作れない。集まらなければやりたいことはできない。だから集まった。しかし集まるのは、自分のやりたかったことが達成されたり形になったりする喜びのほかに、複数のモチベーションを発生させ、動き、楽しかったりもする。それで横道に逸れていくこともできる。
わたしは何をやりたいと思い、今何をしているのか。横道に逸れていくと書いたけれど、じゃあそれがその人のやりたかったことなのだということにもなる。最初はこれをやりたいと言ったけれど、実はこっちがやりたかった、そっちに引き寄せられていったのだ。そういうことはあると思うし、そういうことが起きていたのならよいと思う。そうではなくて、わたしがやりたいことが運動し、そのどれが形になってわたしのやりたいことになるのかという過程の中で、それを強く邪魔してくるものがあった、それは確かにあった、それは一体なんなのか、そしてそれに邪魔されることに注意したいというようなことを言いたい。上演をめぐる制度のことかもしれないし、人間関係のことかもしれないし、「現実」ということかもしれない。わたしはやりたいことをやっているかもしれない。わたしはわたしがやりたいことをしている。かなりやっている。しかしそのことを邪魔されているなと思うときがある。具体的に思いだせるが、その話ではない。ハンドルを握るということは、わたしはわたしがやりたいことをしていると思うこと。わたしがやりたいことをしているという認識なしに何かやることは不安で、恐ろしくもある。苦痛でもある。しかし結果的にそれがわたしがやりたいことだったのだということにもなりうる。わたしが意識的に選んでいないところで、わたしがやりたいことの動きが出てきている。それがわからない間は不安だが、他人から見ると結構はっきりわかる。本当にやりたくないと思っている時と、やりたいのかやりたくないのかわかっていないようだがやりたいと思っている時の人との違いを、見て分けることはできる。やりたいのかやりたくないのかわからない間に、もうやってしまっている。
だからわたしはもうすでに始めてしまっているので、それを途中で止めることはできない。無視することはできる。今わたしは、無視していないかと不安になっている。わたしは作家になるんだ。作家になっていっているんだ。邪魔をするな。わたしはわたしが作家になることをみんなに見せびらかして歩いている。みんなが来れなかった道だよ。みんなも来れるはずだったのにくるのをやめた道だよ。バカみたい。どうでもいいものがたくさんあるということを突きつけられると本当に戸惑う。本当にどうでもいい。全然つまんない。つまんないって言いながらつまんなくなっていっていて、だけど結局はつまんないよねって言って安心して、よかったね。ずっとつまんない。つまんないからここは嫌だなと思って出ていったんじゃん。つまんないここにいるのがそんなに大事ですか。いいことですか。そう言って溜飲下げてるだけですよね。つまんないって言いながらつまんなくなっていくのを、みんなやりたかったんでしょ、僻みながらでも。くだらな。弱いなと思います。みんながつまんなくてやばくなるのを抑えるために、俺が見せ物になったりしていいよもはや。全然。ずっとそうだったしね。そういう安心の仕方あると思います。わたしはみんなを挑発している。でも結構真剣ですよ。自分で挑発してるって思ってないから。結局ズブズブになりたいってこと、や、でもそうなれたら最高。最高じゃん。死後じゃねえよ。ここをそうすんだよ。そう言ってんのずっと。
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