スニーキング・ミッション(ダダ漏れていく)②

昨年体験した祖母の初盆とそこでの母の座布団の座り方から、固有名詞の理解と「演劇的真実」について考える連載。全5回予定。

新盆での母の座り方がずっと気になっているのだと何度か人に話し伝えるとときに、相手の顔が異様なまでに神妙な顔つきになっていくときがある。あまりにも思い詰め、わたしに対してどのように返答すべきか慮っている視線がわたしには煩わしい。この話をする相手は別にわたしと親しい人に限られていたわけではなく、わたしは親しいからという理由で何か普段話さない話を話そうとそもそもあまり思わない。わざとその場にそぐわない話をいきなりして露悪的に振る舞いたいわけでもない。パブリックな場でいきなりプライベートな話をすると、その話者は露悪的に振る舞いたいのだとされる文法もかなりのところ疑っている。要するに考えたいのは、親密な関係は常に閉鎖的でプライベートな秘密の場所で行われるというイメージのことだ。

ゲーム実況動画の面白さについて、友人が遊んでいるところを覗き込んでいる時のようだと説明する仕方がある。Wiiのバーチャルコンソールという昔の任天堂のゲームがプレイできるソフトウェアでスーパーマリオサンシャインをわたしは小学6年ごろ遊んでいたが、海のステージに出てくる通称「大アナゴ」が大変に恐ろしかった。スーパーマリオサンシャインは単線的に進んでいく構成なので、「大アナゴ」で詰まってしまうと次に進めない。困ったわたしは別のクラスだったが比較的家が近所の友人に帰り道に相談をして、代わりに「大アナゴ」のステージだけプレイしてもらうことにした。ところでその友人は足が臭くて、しかしわたしはそれに気づかず母がしかめ面で、その友人の足が臭い旨をわたしに言ったことがあった。母はその後で、そのことをその友人には言うなと釘を刺したがわたしは友人に、お前の足は臭いらしいと言った。バレないように家の外の玄関でその会話をしたのだが母はそれを聞いていたらしく、友人が帰った後でわたしを叱った。友人に対して悪意がなかったとは言い切れない。この友人は第二次成長期に早めに突入し、ありえないくらい走るのが早くなった。小学校の間わたしが維持してきた足が速いというプライドは、努力や鍛錬とは全く関係のない第二次成長期という事象によってぐらつかされた。そんな友人がわたしの代わりにスーパーマリオサンシャインをプレイしているところを、おっかなびっくり見ていた。淡々と、特に何かをいうわけでもなくコントローラーを握っていた。その後わたしは狂ったようにゲーム実況動画を見ることになる。そしてわたしは、秘密の隠し方をまだ理解していないのではなく、そもそもわたしにとって隠されるべき秘密というものが存在しないのではないかと考えるようになる。

ゲーム実況動画はプライベートがダダ漏れている。ゲームはそれぞれの家庭でそれぞれにプレイされるから根本的にプライベートなメディアだと言ってよいだろう。映画館で共に映画をみる、葬儀場で共に死者を悼むようにはできていない。あくまでそれぞれのプレイはそれぞれのプレイとして区別されるはずだ。しかしゲーム実況動画は、それら個々のプレイの体験を共有できるようにする。今ここでどういうことが起きているかを、できるだけ取り逃がさないように話し続ける。ゲームをプレイしているということがどういうことなのかを説明するために、こんなにも大量のテキストが必要なのかということがまずわたしには面白く、その上ゲームには一才関係のない歌を口ずさんだり、下手なナレーションをつけてみたり、面白くないギャグを言ってみたり、それらがあるゲームを実況プレイしていることのうちに含まれていることにおそらくわたしは感動した。ゲームの内容と、そこから連想されるイメージやその日の体調といったプライベートとされる要素や、それをみている観客を意識した種々のサービス精神が渾然一体となって、プレイとして現れる。

確かにこれを露悪的な自己表出の快楽だと言うこともできるだろう。ゲーム実況の欲望は、もはや男性器を露出したいといった快楽に限りなく近いようにも見える。ゲーム実況者たちのセクシュアルハラスメント(「オフパコ」)とその炎上が絶えなかったことからも、彼らの領域が露出の欲望を助長させ増大させていくような極めてホモソーシャルな空間であったことは間違いない。しかしゲーム実況者が男性器そのまま丸出しを見せる-その欲望に共振した鑑賞者が面白がって見るという関係としてのみ理解するのはわたしには早計に思う。ゲーム実況は暴露というには、あまりにも瑣末でささやかで、素朴すぎるからだ。

むしろ気になるのはゲーム実況者たちの欲望の発露の慎ましさだ。彼らは男性器を露出したいというほどまでは表現を過激化させず、散漫な連想をそのまま垂れ流すことでその代わりにし、そしてその営みは全体として非常に行儀よくおこなわれる。優等生的でもなく、同時に狂気じみたアングラでもない。実況プレイの名の下に、ささやかなパブリックとプライベートの踏み外しが延々なされていた。わたしは実況を、ほんとうのことだと真に受けた。

ポストモダンダンスの偉大なダンサーであるイヴォンヌ・レイナーが幼少期、父親から嘘をつくことが不可能であることを教えられたという逸話があるらしい。口で嘘を言っていても体のどこか別の部分が口とは別の本当のことを話しており、それは同時に相手に伝わってしまう。ゆえに嘘をつくことは愚かしいことだ、云々。レイナーはこの教えを清教徒的と振り返っているが、わたしの経験と呼応するところがある。レイナーの問題意識は、ダンスをナルシスティックなダンサーの自己表出の欲望と、窃視症的な干渉者の欲望という密室劇から解放することにあったという。それゆえダンスをダンサーの自己表出ではなく、なにかによってあるひとがこのように動かされているという、踊らせるものと踊らされるものの緊張関係の表現へと向かう。ダンスの求心力や根拠を、ダンサー自身から、ある状況や集団へと移し替えたらどうか。有名な「タスク」はそのような提案だ。今までの話を踏まえるとレイナーもまたわたしと同じように、秘密は個人の中に存在するのではないと言うだろう。レイナーのダンスのささやかさや単調さは、どこか実況プレイ動画に似ている。しかしダンスを諦め映画や映像の領域に移動していったレイナーの夢は、2010年前後のニコニコ動画においても果たされることはなかった。これはゲームのプレイなのだと言えばすぐに、お前の欲望だろとすげ返される。

嘘と本当、演技と秘密という二項対立について何が言えるか。あらためて整理しよう。レイナーが批判したナルシスティック-窃視症の関係性は、本当と秘密の強い結託を背景にする。ダンサーが本当のことを本当に言い、観客はそれを本当のこととして受け取る。そしてそのことが可能になったのはこの限られた特別な場所と時間に置いてだけだとして、本当のことはそれ以外の場所と時間には表れない秘密である。しかし嘘をつくことが不可能であるということから出発したレイナーはこの前提を受け入れることができない。したがってレイナーはダンサーではなく、踊らせるものという非人称化されたものを代わりに据え置く。ある人が秘密を暴露するのではなく、ある状況がある人にある身振りを強い、それを目撃した人間がそこに秘密らしさを読み込んでしまう。レイナーも参照したというウィトゲンシュタインのように言えば、秘密があるとすればそれは、あるゲームのあるプレイが誤読されたものだ。レイナーが、そしてゲーム実況者たちが、欲望のプレイから非人称のゲームのプレイへと提唱したところで、鑑賞者たちはレイナーを性的にまなざすし、ハラッサーであるゲーム実況者をキャンセルし、ゲームをある個人の欲望のプレイへと軌道修正していく。アイデンティティ・ポリティクスや親ガチャ、反出生主義、そして加速主義は率直に言って、この軌道修正の運動のことを指し示している。ゲームか個人の欲望か、わたしたちがこれら二つの空間をうまく行き来できていないことに問題の根っこがありそうだ。

ある日の陸上部の練習で膝を痛めた。本当に痛めたのかと言われれば怪しい。いくらか距離を置いたフープの上を、片足で飛びながら進んでいくというトレーニングをしていて、これは体幹を鍛えるためという名目だったように思うが、膝に負担のかかる練習ではあった。夕方ごろ、学校の外にあるかくばった公園だった。わたしは中学2年だった。途中で練習をやめた。練習が終わり着替えてからもまだズキズキと、じんわり傷んでいる。以前に読んだ重松清の小説の中に「オスグッド症候群」という成長痛の描写があったことを思い出し、わたしの今のこの膝の痛みはもしかしてそれではないだろうかと思い始めた。わたしは背が低かった。帰り道、最寄駅から車で家まで母親に送ってもらうその中で、わたしは母に膝が痛むと言った。母はなぜか苛立っていて、それなら今から病院に行くかとわたしに聞いた。わたしはそういうわけではなかった。成長痛は治療とかそういうんじゃない。重松清の小説で読んだ。わたしは、この膝の痛みはオスグッド症候群ではないかと母に言った。母はそれでも病院に行くか行かないかと聞くので、病院には行かないと言った。ウィトゲンシュタインは、痛みをプライベート=私秘的なものの例としてあげているらしい。このわたしが感じているこの痛みを相手に伝えるのは、文法や文法的基準と彼が呼ぶものによってだが、しかしそれはあくまで印や記号のようなもので、足をぶつけて泣くといった身振りである。それゆえ身振りは、それが本当にそうだとベタに受け取られもするし、それは嘘だと疑ってかかられもする。そしてこの痛みそれ自体は身振りには変換されえないので、ベタに受け取られたとしても、あくまで記号としての痛みだけが伝えられる。したがって痛みはプライベートなものである。わたしの膝の痛みは母に伝わらなかったし、伝わる類のものではない。それは当時のわたしも理解していた。しかしではなぜ、わたしがこの膝の痛みを成長痛だと思っているという時のわたしの機微までもが母に伝わらなかったのだろうか。縁起の問題だろうか。もっと正直に、わたしに成長期の兆しが訪れたかもしれないことをわたしは嬉しく思っていて、そしてその喜びを母とも分かち合いたいと言えばよかったのだろうか。わたしはそうしなかった。もし、わたしの膝の痛みが母に伝わっていたとしたらと考えて、母が最近はあの時ほど苛立っているところをわたしに見せていないことに気づき、あの母のことを今のわたしはうまく思い出すことができないような気がしてきた。