稽古場はいかに閉鎖的か

稽古場はいかに閉鎖的か

2022~2023年にかけて考えていた「稽古場は今どのようにありうるか」をまとめた論考。「家・家族・故郷の生態系とお土産のポータル」記録集に掲載予定。

0 「稽古場貸し企画」活動報告

 ポストパッションフルーツの貸民家プライベイト運営にあたって、「稽古場貸し企画」を行った。いくつかの劇団や演劇カンパニー、集まりに対して稽古場貸し出しを持ちかけ、実際にプライベイトで稽古を実施してもらう、私がそれに立ち会うというシンプルなものだ。使用料金は以下の通り。平日は一日利用2000円、午前中(7〜12時)1000円、夕方(13〜17時)1000円、夜(17〜23時)1200円、夕方から夜(13〜23時)1500円。休日は一日利用2500円、午前中1000円、夕方1200円、夜1500円、夕方から夜2000円。
 貸し出しは3つの団体に依頼し、それぞれ利用があった。屋根裏ハイツが4月25日17〜23時に稽古場利用、バストリオが5月6日12〜20時でイベント利用、散策者が5月28日13〜23時に稽古場利用として、それぞれプライベイトを訪問した。屋根裏ハイツと散策者はともに「円盤に乗る派」が主催した芸術祭『NEO表現まつり』にて、稽古を行った演目をそれぞれ上演した。
 またバストリオは「トレイル」と題したイベントを開催した。バストリオは上演制作にあたって、散歩をすることや、メンバーの日記や写真を読みあうことから出発し、そこから上演のラフアイデアのようなものを「発表」と呼び制作することを稽古場で行うという。「トレイル」は1日かけて、素材から出発して「発表」を作る、そしてそれを全て観客が見れるようにするという建てつけのイベントで、2023年1月より定期的に開催されている。
 実際貸民家プライベイトでは展示や上演の他にも、撮影や稽古、アトリエ的な使用も受け入れていたようで、従来のプライベイト運営を引き継ぐ形だったが、それと同時に私の目論見のようなものも別に存在していた。
 一つは、議論が立ち上がっては落とし所を見つけられずうねり続けている演劇制作現場における「ハラスメント」の問題について扱いたいというものだ。稽古場という閉鎖的な空間では、不均衡な権力勾配によって非対称な立場に置かれた参加者や集まりの成員が暴力を被る。従って稽古場は権力が分散されており、開放的な空間であるべきだ。よく言われる主張だ。
 しかしそれでもなお、なぜここまで議論が紛糾し終わりが見えない状況が続いているのか。あるいはこの主張は今までの演劇制作や稽古場での集まり方をどれくらい拒絶するのか。まだこれらの問いに対して、一定のコンセンサスの取れた回答は提出されていないように思われる。
 稽古場は閉鎖的な空間であることをやめるべきだという主張を前にして、もう一度閉鎖的な空間が担保される必要について吟味すること、これがもう一つだ。たとえばハラスメントへの警戒と注意という風潮に呼応してか、稽古場を開放するという取り組みがいくつかみられるようになった。先述したバストリオ「トレイル」も、ハラスメントについては言及していないが、その取り組みとして捉えられる。稽古場が不均衡で閉鎖的になり、加害と被害の関係が固定化してしまうことを防ぐために、第三者を呼び込む。先ほどの主張に則った方法である。
 しかしこれは稽古場ではなく、もはや上演ではないだろうか。稽古場や演劇制作についてのガイドラインやそれぞれの団体のステートメントが戯曲として読み込まれ、その上演として稽古が行われる。正しい稽古場という劇を第三者という観客に向けて上演するということになってしまえば、もはやその営みは稽古とは呼べない(もっと言えば、稽古場を開放し第三者を呼び込むという試みも、開放性のふりとしてその集団の実体から乖離した集まりを第三者にプレゼンすることで悪用される可能性も否定できない)。わたしは今、稽古場がなくなりつつあると考えている。
あらためて、本当に稽古場はなくなるべきだろうか。閉鎖的な空間としての稽古場を、「プライベイト」と命名された場所で考えることは妥当であろうと思った。

1 閉鎖性とは「思ってたのと違う」である

 あらためて閉鎖性という概念について、稽古場でのハラスメントや暴力の視点から確認したい。
 2021年2月14日にロームシアター京都で開催されたシンポジウム「劇場におけるハラスメントを考える —個人が尊重され、豊かな対話が生まれるために—」にて、登壇した筒井加寿子は「京都舞台芸術協会の理事としてではなく、個人の意見として述べたい」と前置きした上で、支配・従属という関係が必ずしも加害・被害の関係に一致するわけではないと話す。「複数の指導者から、ソフトに指導をしていると「もっと厳しく言ってくれないと不安だ」「もっと上から物を言ってほしい」と相手に要求されたという話を聞いたことがある。強い指導者を望む人もいる。支配・従属という結束が生まれているときに、他者が無理矢理に剥がすべきかの判断は非常に難しい。人の価値観を変えていくことは容易ではない。自分の場合は、少しおかしいと感じた場合は、本人の意思をしっかり聞きながら、無理矢理に「こっちが正しい」と決めつけることなく、慎重にことを進めるよう心がけている。」
 強い戯曲や強い演出家による加害・被害関係の固定化を避けるために、さまざまなガイドラインや倫理的配慮によって稽古を上演した結果、それはそれでまた参加者の不満が出てくる。当然のことだが、稽古場の閉鎖性と言われているものは、窓があるかないかやドアが閉まっているか開いているかといった空間の物理的な側面や、厳しい指導や高圧的な物言いなどに留まらないものであると、まずは言えるだろう。
 ここで参加者は何を求めているのだろうか。それは「やって来てみたら、思ってたのと違った」という認識のことではないだろうか。教わることや何かができるようになっていくことは、自己自身を変身させていくことでもあるため、思っていたのと違う場所が必要になる。「もっと厳しく言ってくれないと不安だ」という言葉は、もっときびしく言ってもらえることでそこが思ってたのと違う場所になることを欲望しているので倒錯しているが、思っていたのと違う場所が必要であるということ自体は妥当な考えだろう。郷に行っては郷に従えなどというまでもなく、ある集団の中に入り込むということは、「思ってたのと違う」経験をすることである。
 整理しよう。まず、戯曲や演出家といった特権的な位置をしめるものが集団の動きを拘束し、加害と被害の関係を固定化させる集まりの集まり方があった。これは成員に対して暴力を反復してふるい、さらにその暴力行為そのものを構造的に隠蔽するため、問題である。
 これを解決するためにガイドラインの作成やステートメントの発表を行い、それに則って稽古場を運営するという動きが見られる。しかしこの方法は、そもそも否定していたはずの戯曲の位置にガイドラインやステートメントを置いたものと見ることができ、稽古場や集まり自体の具体性、つまり「思ってたのと違う」という経験が捨象されてしまうという問題がある。キャンセルカルチャーとは、思ってたのと違うことをやる人を上演から退場させることで、思ってたのと同じ場所にする運動のことだと言ってもよい。
 ここで重要になるのは、「思ってたのと違う」という経験が暴力そのものであり、忌避すべきものであるかどうかということだろう。ガイドラインやステートメントとは、事前に集まりの集まり方を示すことで参入障壁を下げ、心理的安全性を高めるというものであり、「思ってたのと同じ」経験を目指すものだからだ。閉鎖的・開放的という二項対立は、「思ってたのと違う/同じ」という認識の区別にスライドさせた方が明確かもしれない。先ほどは勉強の例や慣用句で素通りしてしまったので、再度「思ってたのと違う」という認識についてもう少し考えよう。
 東浩紀は『訂正可能性の哲学』の中で、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を参照しながら、人は「一体何のゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」と主張する。そもそも原理的に事前に明示的に集まり内部のルールを定義して説明することは不可能であるということだ。
 例えば、「石板!」と人が叫ぶ時、「石板!」という文章の意味や効果は、叫んだ人と叫ばれた人との間によってパフォーマティブに決定されるものであり、「石板!」という文章の中に内在しているものではない。叫んだ人は石板がここにあることをだけ言い、叫ばれた人は石板を持ってこいと命令されたと受け取り、それを見ていて第三者が「なんかひどくない?」と叫んだ人を責めにくるとする。この時叫んだ人はあくまで石板がここにあることだけを言っていたが、叫ばれた人の動きとそれを見ていた第三者の動きによって、「石板!」という叫びは命令として訂正される。そしてそのことを叫んだ本人は否定することができない。
 ゲームやそれによって組織される集団の動きは、実は他者や集団の外部に極めて依存しており、集団それ自体のうちだけで説明することはできない。集団の成員もまた、その内部で起こっているゲームが一体どんなゲームなのかということは原理的にはわからない。したがって「思っていたのと同じ」経験を目指すことはそもそも不可能である。「あなたのことを思って殴っているんだ」といったハラスメント加害者の常套句も、「心理的安全に配慮した稽古場作りを行っています」といったリベラルなアナウンスもどちらも、常に訂正される可能性から逃れることはできない。
 では、「思ってたのと違う」という経験から逃れられないとなった時、それがそのまま暴力と見なされうるだろうか。あるいは暴力とみなされる経験とそうでない経験に区別できるとすれば、それはどのように決定できるだろうか。
 千葉雅也は『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』の中で、「本当のハラスメントと、そうじゃないふるまいを分ける」ことについて言及している。二村ヒトシの「街中でジロジロ見るみたいな明らかにアウトな奴じゃなくて、綺麗なエロい女の人をチラッと見るのも、このままいくとモラル的にNGになってしまうのかな?」という問いから出てきたものだ。千葉は「本当のハラスメントと、そうじゃないふるまいを分ける」態度を「リベラル的」と呼ぶが、「(リベラルは)「それくらいは常識でしょう」と、たぶん言うと思います。問題はそういう常識への依拠なんですけどね。」と続ける。ここで力点が置かれているのは、本当のハラスメントと、そうじゃないふるまいを区別する時に持ち出されるのがあくまで「常識」という、極めて特殊時代的な考え方であるということだ。ややもすれば現在の私たちはハラスメントや体罰やいじめや虐待や差別やテロや戦争や奴隷制度を、「常識」から考えて普遍的に(というより素朴に)悪であり暴力であると言えてしまいそうになる。しかしそれらが悪であり暴力であるとみなされているのは、歴史的な訂正の積み重ねであって、無時間的に初めから存在するものではない。
 整理しよう。撞着した言い方になるが、暴力とはそれが暴力とみなされたものを暴力と呼ぶのであって、スタティックに存在している「暴力」というものに自らの経験があてはまるかどうかではない。そして思っていたのと違う場所のことでもない。わたしたちは生まれた瞬間から思っていたのと違う場所から逃れられない。

2 TikTokから稽古場へ(思ってたのと違う場所でどうやるか)

 初めに私は、上演だけが行われ稽古場がなくなりつつあると述べた。思ってたのと違う場所がなくなり、思ってたのと同じ場所が作られていく。あるいは「常識」によって本当のハラスメントとそうでない振る舞いがキッパリと判断されていく。ある上演への異議申し立てもまた上演としてもっともらしくなされる。しかし上演を下支えしているのは動的な歴史的な訂正の積み重ねであり、その運動の中でこそ、上演を真に訂正する動きを開始することができるはずだ。
 「上演」という語をかなり広い意味で用いてきたが、ここでその使用について確認する。上演とは、社会的に認知されその意味や効果がコード化された身振りによって構成される状況のことである。TikTokのことを考えればわかりやすい。TikTokは狭義のダンスに限らず、ライフハックや株投資、DIY、料理、巻き爪の治療、恋愛工学、馬の蹄の手入れに至るあらゆる身振りとその指南のアーカイブである。身振りに感染したユーザーは、コンビニの駐車場でNewJeansを踊るように教室でひろゆきの話法で話し、Daigoの教えにならってTinderを起動し、mbti診断のロールプレイを恋人と愚直に再演する。公園の片隅で小学生によって生まれた「ひき肉です」という演技は、第19回アジア競技大会の準々決勝U-24日本対北朝鮮での日本ゴールの際にも上演された。またTikTokLiteでは視聴時間やログインによって、AmaozonやPayPayに交換可能なポイントを獲得することができる。身振りがミームとなって、プライベートとパブリックや労働と消費という区別をぐちゃぐちゃにしながら上演の領土を奪い合い拡大している。私たちの身体もまたプラットフォームを流通する身振りに取り憑かれ続ける。
 次なる問いはこうだ。地球上がTikTokをはじめとした身振りのミームで覆われるとき、「思ってたのと違う」場所をどのように担保し、そこから既存の身振りや上演を訂正するにはどうすれば良いか。
 例えば岸井大輔はTikTok論の中で、午後0時のプリンセスによる新しい学校のリーダーズ「オトナブルー」のコピーを、「振る舞いの転用」という観点から評価している。「性的搾取への不安と愛を求める振る舞いが、マイノリティーに感染することで、偏見に基づき排除する者たちへの嫌味となり、社会に変更を迫る。新しい学校のリーダーズとゼロプリの連携が武器となり、差別と戦うことができる」。アーカイブされコード化された身振りを、全く別の文脈に無理やり接続して異なる効果を狙うパロディの戦略がありうる。しかしこの方法では、上演を「少しだけ止めている」に過ぎず、終盤では「新しい振る舞い」が制作されることが必要であると述べるが、具体的な議論はなされないまま論を閉じている。
 強い戯曲や演出家からガイドラインの上演へという流れを初めに示したが、ガイドラインの導入については、稽古場のセキュリティの責任をアウトソースするものであるともいえる。稽古場という具体的な制作現場が、ハラスメントや労働環境を巡る法整備とその運動と直結しており、稽古場での「思ってたのと違う」身振りを検討する場所は稽古場の中ではなく、法的な手続きとして外部に流れてゆく。そして法的な判断もまた社会的な構築物であるがゆえに、一概に正しいものとして受け入れられないものも出てくる。これに対しては再び法整備への異議申し立てという上演がやってくる。稽古場が立ち入る場所はない。岸井の示す既存のプラットフォームを利用したパロディの戦略もまた、責任をアウトソースするものとして上演に絡め取られてしまわないだろうか。
 対照的なものとして太田充胤のダンス論を参照しよう。TikTokやMMD、Vtuber、「オルタ」などを論じた連載の終わりに、ダンサー田中泯について触れている。田中の踊りは「反復されず、記録されず、流通せず、名づけられないがゆえに伝承されない」「行き止まりのダンス」である。東京芸術劇場での上演では、そのあまりにも名付けられず行き止まっている田中のダンスを前にして、多数の観客が眠っていたという挿話の後で、太田は田中の路上でのダンスに目を向ける。
「路上では、「踊らせるもの」はあらかじめデザインされて舞台の上に配置されるのではない。ダンサーがそこに身を置くことで、日常空間が一時的に「踊らせるもの」の布置として立ち上がる。ありとあらゆる「踊らせるもの」へと開かれること。その空間の全てを「踊らせるもの」として引き受けること。名付けようのない踊りを鑑賞することとは、こうしたその場限りの引き受けに立ち会うことに他ならない。」
 田中の踊りは、世界が上演になっていく動きを、もう一度自分の身体によってやり直すことだと言えるだろう。TikTokのアルゴリズムや、社会的な道徳や法整備の運動から離れて、そこがどのように「踊らせるもの」としてあるかを、愚直に田中という身体が動きながら示す。田中の動きによって、路上の空間が、このように踊らされうるものとして訂正されていく。
 ここで重要なのは田中のダンスを、それを見たものが引き受けられるかということだ。太田の回答は興味深い。「それを見た者の側に踊るつもりさえあれば」できる。田中の踊りは、観客に対象として見せているのではなく、田中が示したり訂正したりする「踊らせるもの」によってそれを見ていた人間も踊りにいき、そこがどのような「踊らせるもの」であるかを複数の身体で議論するダンスフロアを出現させることではないだろうか。また太田が言う「踊るつもり」のある人とは、田中を対象として鑑賞する観客ではなく、またTikTokによって踊らされるユーザーでもなく、ダンスフロアをダンスフロアとして維持し運営する広義のダンサーのことであり、ホスト=迎えいれる者のことと言えないだろうか。

3 ホストたちが集まる場所としての稽古場

 稽古場としてプライベイトを利用してくれないかと声をかけて周り、それに立会いもした経験の後で、私は私の実家で『食器』という題の演劇公演を行った。私の故郷である千葉県八千代市で100年前に発生した関東大震災後の「朝鮮人虐殺」を、特に配慮の過剰という観点から扱ったものである。小林家の旧家はずっと祖母が一人で暮らしていたが(祖父は私が生まれてくる前に亡くなっていた)、昨年亡くなってから旧家のあれこれを私を含む代の家族が担うことになった。初盆の時、あれこれで明らかに疲弊していた母親が、お坊さんが念仏を唱えている傍で座っている時の姿が気になった。悲鳴をあげているようにも、何かに取り憑かれているようにも見えた。
 『食器』の筋は、「朝鮮人虐殺」の犯人の霊が母に取り憑いてしまったのでそれを成仏させたいと話す息子である私に付き従い、旧家の中を案内されながらテキストを音読していくというものだ。朝鮮人虐殺を、人種差別や当時のイデオロギー闘争の表現としてではなく、私たちが住む場所を安全に保ちたいという配慮の過剰によって捉えるという発想から、虐殺の犯人と母親が、憑依という形で重なっている。
 旧家はずっと私にとっては祖母の家であり、祖母に招かれる家だった。それが昨年の冬から、旧家は私も住み暮らし、手入れをする家になった。とりわけ初盆の母の姿が印象に残っているのも、私がもはやずっと誰かに招かれているだけの人間ではいられないということを確信したからだったのかもしれない。
 母に、初盆の時の姿が配慮の過剰によって悲鳴をあげているように見えたと伝えると、嫁いできた時の話を始めた。夜中まで続く大規模な宴会が旧家では頻繁に開催され、祖母に付き添う形で母も酒を運んだりついだり皿を出したり洗ったりしまったりし続けていた。宴会をやっていた座敷には母と祖母の席が作られることはずっとなかったという。母はひっきりなしに動き続ける祖母を見て「ぎょっとしたよやっぱり」と言った。その後で「でも私一人座っているわけにもいかないじゃない」と思い直したと言う。祖母が亡くなり出棺挨拶で父が、祖母が若くして一人で嫁いできたその孤独について話そうとして、しかしあまりにも泣いているのでほとんど聞き取れなかったことを思い出し、祖母もまた「ぎょっとしたよやっぱり。でも私一人座っているわけにもいかないじゃない」と言ったかもしれないと思った。やはり、身振りがこの家に取り憑いていると思った。そしてそれは部分的に私にも取り憑き始めている。
 では過剰な配慮が問題なのであって、適切な配慮をすればいいのだということも、根本的な解決にはならないだろう。適切さとは実体を持っていないものだから、すぐに適切な配慮に対する過剰さがやってくる。むしろ私が考えたのは、母や祖母やそれに先立つ先祖たちの悲鳴が聞き取れる場所や回路を旧家の中に作り出すということだった。どこにも接続先を見つけられなかった「ぎょっとしたよやっぱり」という母の感覚が生まれて、そして流れていったというその動きを、他ならぬ旧家で何度もやり直し聞き取るということだ。
 『食器』は最後に旧家から出て庭に移動する。祖母が畑をやったり柚子や栗の木を植えたりしていて、それなりに広い。私はあらかじめそこに2メートル四方程度深さ1.5メートル程度の穴を掘り、ベニヤ合板で蓋をして上には土を被せた。観客と私はそこに入り、またテキストを輪読した。特に「寿司より刺身がおいしいぞってわかり始めてきた頃、 きみのためにワンルーム借りようっておもった。」という台詞によって、庭の穴が母の悲鳴を聞き取る場所になった。穴から出てくると幽霊が成仏した母親が地上で待っている。
 この公演において重要なのは観客の存在だろう。私が実際に私として話し、実際の旧家に招いたので私がホストで観客は観客でしかない。だが、観客がなぜこの家に招かれ、挙げ句人の家の幽霊沙汰などというほら話に付き合わなければならないのかというのとほとんど同じ理由を、私も旧家や母に対して抱くことができる。東の言い方で言えば、私の家でどんなゲームが行われているかは私自身も説明できないからだ。そして私は観客に対して、今この時間だけはここのホストになることを、太田の言い方で言えば旧家という踊らせるものを前にして踊るつもりで私とともに踊ってくれることを求め、その交渉を含めて上演した。
 また『食器』において本当の意味での観客とは母親だった。観客は私とともに旧家のそこかしこでテキストを読み上げ、母の悲鳴を聞き取ろうとする。そして庭に設営した穴の中を介して、母の悲鳴が聞き取られたことが母に伝わる。観客と私が出演者で、母親に見せていたのだ。田中のダンスのように『食器』においても、「踊るつもりさえあれば」ホストになれるし、そのことを原理的に私は拒否できない。結果的に上演時間は座敷でのアフタートークも含めて4時間を超えるものになった。
 改めてホストや「踊るつもり」がある者について整理しよう。先ほど参照した太田のテキストは「居ること」についてから始まっている。太田がダンスフロアで感じた居心地の悪さを語る2つのエピソードは、一方はDJプレイに対して即興的にその場のノリを掴んで踊ることの技術的な困難さに起因するものがあり、他方は曲と振り付けがセットで流行している曲が流れた途端にフロアの客がその振り付けを踊り始めたという経験で、これは上演で世界が満たされてしまっているという先述した議論に起因している。
 前者の例は、DJプレイやダンスフロアというのがそもそもどのようなゲームなのかその成員にも判断しきれず、その最中でどのようなプレイにしていくかを決定していく動きに成員が飲まれていくわけだが、田中の例に至ってはもはや技術も型もないため技術的な熟練を必要とせずとも田中の踊りを引き受けることができるはずだということになるのだろう。『食器』の場合で言っても家事や家の手入れも、必要な技術とその習熟は確かに必要だが、より根本的には旧家がどのような「踊らせるもの」であるかを考えようとすることで、招かれたり招く存在を無視したりする立場から招く立場への移行が起こると考えられる。
 稽古場とはどんな場所か。それはまず身振りの判断を外部にアウトソースせずに、成員や第三者を含めて集団的に行う場所である。また「踊るつもり」のあるものたちが集まる場所である。自分がどのような振り付けに踊らされているか判然としない中で、「踊らせるもの」を明らかにしようとしたり訂正しようとしたりするダンスフロアである。そしてホストたちが集まる場所である。旧家という「踊らせるもの」や、祖母から母、母から私へと感染する身振りを引き受け悲鳴を聞き取る場所としての旧家の庭の穴である。ガイドラインに沿った正しい稽古場の上演とハラスメント訴訟という法廷の上演と法整備をめぐる運動という上演のサーキットを周回することや、TikTokのような身振りのミームの連鎖に身を任せることから離れて、ホストたちが集まる場所としての稽古場を担保することではじめて、暴力とみなされていなかったものが暴力であると訂正したり、新しい振る舞いを開発したりすることが可能になるだろう。踊るつもりを持ち、踊るつもりを持つものとともに、踊らせるものに踊らされること。

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注釈
バストリオ “『トレイル』のお知らせ”2023-01-14 http://busstrio.com/archives/9453 (参照:2023-12-14)

“シンポジウム「劇場におけるハラスメントを考える —個人が尊重され、豊かな対話が生まれるために—」第2部抄録” ロームシアター京都 2021-05-21

東浩紀『訂正可能性の哲学』(2023、ゲンロン)
千葉 雅也、二村 ヒトシ、柴田 英里『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』(2018、KADOKAWA)

“「まさかの笑」「アジア進出」ラフプレー続出の北朝鮮撃破、U-22日本代表が見せた「ひき肉です」パフォーマンスが話題に「気持ち良すぎ!」”Yahoo!ニュース 2023-10-02 (参照:2023-12-14)

岸井大輔 “「ひろゆきは振付家」怨霊となった振る舞いが動画アプリTikTokに取り憑いた” 現代ビジネス 2023-10-05 

岸井大輔 “『オトナブルー』はなぜ“バズった”のか、TikTokは壊れかけた世界で戦う武器になる”
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太田充胤 “踊るのは新しい体 第9回:「踊らせるもの」の諸相──その布置、流通、運動への変換” かみのたね 2023-10-06